③「中間航海」の果てに

この章では、ニグロスピリチュアルを歌うようになった黒人たちの歴史をざっと書いていくこととする。

 

まずは1619年。ヴァージニア州ジェイムスタウンに20名のアフリカ人が連れてこられた。この時はまだ「奴隷」というより「年季奉公」だったが、その後、アフリカ人が多くなるにつれ、奴隷化していったそうだ。その最初はマサチューセッツ州。1672年からその数は急増していった。

※後述もするが、アメリカはどうやら「州」ごとの力が大きいようで、後年の奴隷解放化も、州を超えていけないハードルが阻んでなかなか統一できなかったようだ、というのが印象的である。 


黒人奴隷はどうやって運ばれたか。

現在のギアナ、ガーナ、ナイジェリア、カメルーン、ガボンあたりで捕えられ、海岸の拘置所(牢獄、要塞のような場所)まで、鎖に繋がれ、歩かされ、着くと、船に乗るまで待たされた。

この絵はブルックス号という、454人の「積み荷」を運べる船。30m×7.5mの木造帆船。  

※「アミスタッド号」においては、黒人が船を乗っ取ることに成功した。映画「アミスタッド」必見!

 


さて「積み荷」とは? ・・・船の絵を拡大してもらえたらわかるように、そう、この細かい描き込みは「人間」なのだ!

床から天井まで50cmのところに、鎖のままぎゅうぎゅうに寝かされ、糞尿にまみれ、体力は落ち、疫病も蔓延。
時々、甲板に出されて体操させたり、海の水をかけて洗われたりしたが、海に飛び込んで自殺する人も出たという。

結局生きてアメリカに着いたのは2/3の300人程度だったという。

この航海を「中間航海」と呼ぶ。

なんの中間? それは図のように、「三角貿易」と呼ばれる貿易の中の、ヨーロッパとアメリカを結ぶ中間に位置する航海のことなのだ。


さて、アメリカ大陸に着いたアフリカ人は、奴隷の競売にかけられた。

屈強な若い男性は高い値がつけられ、子どもを産める女性も高値。

大抵のプランテーション(農場)は、奴隷数10~20人で、親子で連れてこられても、ばらばらにされることも多かった。

抵抗した者は、首を縊られ吊るされて、見せしめにされることもあったという。

 


「首を縊られ吊るされて」と書いていて、そういう場面を歌った曲がある!と思いついてご紹介します。(Spiritualでなく、JAZZの範疇ではありますが)

ビリー・ホリデイの「奇妙な果実」(Strainge Fruit)です。

木にぶらさがる、縊死した黒人の姿を「果実」と歌っています。曲調も陰々滅滅としてますが、歌詞を追うともっと辛いです。

1930年代、と、かなり近代になってから作られていますが、近代でもまだ黒人がリンチされ殺されていたということです。

動画によっては写真とか絵が出てきて、キツイ、と感じる方もおられると思ったのでこれをチョイスしましたが、目を背けたくないんだ、という方は他の動画も観てみてください。


奴隷制を始めた(1641年)のはアメリカ北部マサチューセッツ州であり、南部のヴァージニア州が奴隷制を合法化する20年も前だった。しかしその後、南部が奴隷州(プランテーション農業が盛んで人手が要ったこともあろう)、北部は奴隷制に反対の色が濃くなっていく。もっとも、北部とて、平等だったわけではなく、無視する類の陰湿な差別はあったわけだが・・・・・。

 

1776年、トマス・ジェファーソン等による「独立宣言」が出される。

「すべての人は平等に造られ、創造主によって、奪いとることができない天与の権利を与えられ、その中に生命、自由そして幸福の追求が含まれる」

1789年にはアメリカ合衆国憲法が制定されるが、まだまだ保守的で、人権という観点において抜け穴のあるものであった。

 

南部奴隷たちは「地下鉄道」と呼ばれる逃亡組織によって、北部を目指した。

(地下鉄道・・・クエイカー教徒、クリスチャン等が教会や自宅を隠れ家(駅)とし、暗闇の中を馬車(鉄道)を運行し、変装した逃亡奴隷を運んだ) 

 

「Go Down Moses」(いざ行けモーセよ)

地下鉄道での逃亡を助けた黒人ハリエット・タブマンは、イスラエル人をエジプトから脱出させた旧約聖書のモーセになぞらえて奴隷たちから「モーセ」と呼ばれたそうです。

彼女が近くに来ていると知ると、奴隷たちはこの曲を歌って、近隣のプランテーションの奴隷たちに信号を送ったといいます。(多分後の章でも触れると思いますが、歌には信号的な意味合いもあったのです。ダブル・ミーニング(二重の意味、メッセージ性)を持たせて、何かを伝えるために歌う、という・・・・)

さて、この曲の、上の動画は、私たちがよくやるスタイルの、ゴスペル調のを選んでみました。
下のはドラマティックな、劇仕立て?的なアレンジ。黒人が歌っているのがまた沁みます。

その他、かのルイ・アームストロングやハーレム・ゴスペル・シンガーズのはJazzyでオシャレ。良ければ、いろいろ観てみるのもいいかと思います。



やがて、北部対南部の「南北戦争」(1861~1865年)に発展する。

このさ中、リンカーン大統領による「奴隷解放宣言」が発布(1863年)されるが、これまた全土で有効なものでなく、その後修正されたり、1870年には選挙権保障もされたが、南部の古い指導者層が復活、1881年にはテネシー州で人種差別を法制化し、黒人への圧政は続いた。

1896年には、悪名高き「分離すれども平等」が法制化。レストラン、学校、図書館、教会、病院、鉄道車両、公園、トイレ、水飲み場、墓地に至るまで、白人と黒人は分けられた。投票権ももぎ取られた。

リンチが行われても、州の中にとどまる事件であれば、FBIは手出しできない。警官、陪審員、KKK(クー・クラックス・クラン。映画にもよく出てくる。頭から白布をすっぽり被り、十字架を燃やすのが彼らの目印。白人至上主義のテロ集団)などがグルになると、リンチ事件など平気で闇に葬られた。

1900年代前半まで、奴隷制時代よりむしろ悪い、どん底だったといえよう。

 

そして1954年。最高裁が「人種分離を違憲とする」という判決を出し、公民権運動が盛んになっていく。

キング牧師のバス・ボイコット運動~1章で紹介した、ワシントン大行進(1963年)と続いていくのだ。